2017年11月13日月曜日

京都国際インディーズ映画祭

というのに行ってきました。と言っても全部は観なかったのだけど。

行こうと思ったきっかけは「被ばく牛と生きる」というドキュメンタリー映画についての京都新聞の記事(2017.10.31)。正直、この記事を読んだ時、被ばくした牛を飼い続けている人々がいるということが全くの予想外で衝撃だった。

私も多少酪農の現場に関わったので、家畜を自ら殺すということの痛みは判る。ましてや、それが全頭処分となった場合の重みはいかばかりかと思う。それと同時に、家畜である以上、人が管理しきらなければならないということも知っている。牧場で業務に携わるだけならまだしも、経営者であればなおさら自覚せざるを得ないはず。その経営者自らが経費をかけながら飼い続ける選択をとることの意味が瞬時にはわからなかった。

遠くのこと、情報が少ないことは抽象化しやすい。抽象化して理論に乗せることで物事を大きくとらえることができ、効率的な対策を講じることが可能になる。人が長い歴史の中で手に入れたこのような方法は実際大きな効果を発揮してこれだけの発展につながっているのだろう。

その方法に乗せれば、被ばくした牛→不要→殺処分、と、至極簡単な解決法が導き出される。なにも悩むことはない。

でも、ほんとは人ってそうじゃない。

ひとりひとりの小さな感情や意見をいちいち聞いていたらなにも進まないよ、と思うことがある。

そういう大きな流れの必要性は判るけど、実際の現場はこんなにがんばって苦しんでいるんだからこのままこれ以上は続けられないよ、と思うことがある。

どちらも人としてのまっとうな感覚と判断。

考えることをやめて、周りを見るのをやめて、どちらかにすぱっと割り切っちゃったら楽だろうなあ、と思うことがある。

でもそれをしてしまったら、人であることを手放してしまうような気がしてしまう。

自分や相手の正直な感情や感覚を大切にしながら、抽象化して導き出す解決法に協力し合っていくというのが、人として建設的な態度なんじゃないかな、とは思っている。そうすれば解決できる、なんて信じられるほど青くもないけれど。
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第11回 京都国際インディーズ映画祭
なんかとってもフランクな感じでした。

「被ばく牛と生きる」上映情報