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2020年9月7日月曜日

とても久しぶりに、火を眺めていた。

草の匂い。
雨の匂い。
バサバサ飛び回る虫たち。
跳ねるヤギ。 


本当にすぐ近くで、ずっとこんな風にいのちがめぐっているのだけれど。
なんだかずいぶん長いこと、まったく目を向けていなかった。

「生きること」「稼ぐこと」「食べること」。

ぜんぶ大事なことなのだけれど、
自分にとってちょうど良い感じにバランスをとるのがなかなか難しくて、
私はまだできている気がしない。

でも、こんな風に
忘れたころに声をかけてくれる友人がいるから、
まあなんとなくバランスが取れていくのかもしれない。

しあわせな時間。

2020年8月3日月曜日

流れる

あさ、すこし、散歩する。
いつもと少し、ちがう道を通ってみる。

流れる。
流れる。
流れる。

「生きている、とは、動いていること」

流れる。
流れる。
流れる。

よいことも、わるいことも。



2020年7月5日日曜日

カッコいいデザインはいいデザインか?



これは、私が思わず「ジャケ買い」しまったおかきです。

私はどうして他のおかきよりもこれを買いたくなったのかなあ、と思って考えてみたのですが、「今風じゃないから」というのが一番の理由じゃないかな、と。

このパッケージから私がイメージしたのは「おかきを作ることに専念しているおかき屋さん」というものでした。

今流行りのマーケティングだのなんだのなんて知ったこっちゃない、ずっとこうやって作ってるし、みたいな職人さんが思い浮かんでしまいました。パッケージ? ああ、前に作ったからこれでいいんじゃね? とか。

もちろん、私の勝手な妄想なので実際はぜんぜん違うかもしれません。

でも、パッケージに必要以上に力を注いでいない(ように見える)ことで、逆に、おかき作りに力を入れていて、おいしいんじゃないか?と思えたんですよね。

デザインのセオリーというものはいろいろあるんですが、いちばん大事なのは「その(人・モノ・お店)らしさ」が伝わることだと思います。 

間違って伝わることは、ミスマッチを引き起こしてお互いに幸せじゃないと思うのです。伝えたいものに合っているか、ちゃんとそのものの「本当の良さ」が伝わるか、ということを大事に考えると、自然とオリジナリティのあるデザインになるんじゃないかな、と思っています。

そして、そうやって考え抜かれたデザインは、スタイリッシュで「シュッとした」デザインじゃなくても、「カッコいい」と思うんですよね。

ちなみにこのおかきは期待通りおいしくて満足しました。これを買ってみるまで知らなかった「久助」という言葉は…

久助(きゅうすけ)とは、製造工程で割れたり欠けたりした、規格外の煎餅やあられなどを集めて、正規品よりも安い価格で販売するものである。割れ菓子。(Wikipedia) 
とのこと。語源は諸説あるようですが、私はダジャレ系がありそうな感じで好きです…。おかき屋さんの大将が久助さんなのかと思ったけど、違いました。気になる方は調べてみてくださいね!

2020年4月19日日曜日

小さな自分にできること

新型コロナウイルス感染症:拡大防止活動基金にささやかな支援をいたしました。

こういうことをサッとできたらカッコいいよな、と思うのですが、私は疑い深くてビビリなので、こういう騒動に紛れて詐欺団体に寄付しちゃったらどうしようとか、あっちとこっちの寄付はなにが違うんだろう、ここに寄付したらこっちにも寄付しないとダメなんじゃないだろうかとか、そもそも自分の生活だって余裕あるわけじゃないのにとか、えい、思い切ってこの金額を、いやしかしそれちょっと出せないわけじゃないけど辛いかもとか、うだうだうだうだと悩んだ末、ようやく行動できました。

医療や福祉の現場というものを、子供の頃から近しいものとして感じながら生きてきました。

現場の方々は、目の前の、データではない、生きた人間として患者さんや利用者さんと向き合っています。その場では、本当に自分の人間力をフル稼働して対応されていると思います。現場には、いる人・ある物しかありません。それがあるべき状態でなかったとしても、その、いる人・ある物での最大限の対応をせざるを得ない状況にあると思います。

生きた人、というのは、感情も痛みも優しさも残酷さもある、自分と同じ強さと弱さを持った生身の人間です。医療や福祉の現場担当者の方々は、そういった生身の自分と相手の波に寄り添いながら、科学的倫理的な理性に基づいて、さらにその専門職である責任感に基づいて、おそらく自分の限界をやや超えながらも対応されていると思います。

そういう現場に想いを馳せた時、せめて、せめてなにか少しでも力になりたいと思って、今回このような支援をさせていただきました。

少しでも早く感染を収束できますように。


2019年12月8日日曜日

翔る時

ちょっと調べ物をし始めたらびっくりするくらい時間が飛ぶ。
1冊の本にまとめ上げるために使われた研究者達の時間と労力に敬服する。
その1冊の本を充分に咀嚼しながら読む時間が取れない。
ネットに流れている情報はその本の1%にも満たないものが増幅されている印象。
人から人へ時代も場所も文化もまたいで伝えるもの。
さらに今の同時代の中でさえ伝えきれないほど湧き出す情報。

過去に生きた人々が残していってくれた知見。
今頃になってとても知りたいことがわかったよ。

あああああもっと子どもの頃からこのことが分かっていたならば
もっともっともっともっと違う見方で勉強したのになあああああ!

2019年11月4日月曜日

澄んだ、夕暮れ


気持ち良い秋だなーと思ったのもつかの間、なんだかぐっと寒くなってしまった。

最近、「諦める」ということをよく考えている。
若い頃は時間も体力も限界なんて見えてなかったからとりあえず「あきらめない!」って言ってられたけど、これだけいろいろ試したりやってみたり限界のふちが見えたりすると、ここまでやってダメだったんだから諦めるか、と思えるようになってきた。

それは特に否定的だったり後ろ向きだったりするわけじゃなくて、納得できた、という感覚に近い。その道を諦めることができるからこそ、違う道に迷わず入っていける感じだ。

そうやってひとつひとつていねいに選んでいる道が、自分の道なんだなあ、という気がしている。



2019年10月22日火曜日

大切にしたいこと

少し、困っている。

困っている中で、思い出した。
私は、大切な人を大切に扱うために独立しようと思ったのだった。

組織の中で、組織の人としての役割を果たそうとした時に、どうしてもそれがうまくできないことが分かったから別の道を選んだのだ。なにが大切か、どこに力を置くのか。それを自分で決めたい、と思ったから、この道を選んだのだ。他にそれができそうな道を見つけられなかったから。

それなのに、ふと気がついたら同じ課題が目の前にある。


これは、突破しなければならないと思う。

ネット上に私が共感する考えがあふれていることで、とても勇気づけられる。感謝。

2019年10月21日月曜日

仕方ないよね。

私がデザインしたチラシをデザインの先生に見てもらった時、ちょっと「?」と思うような特徴を指摘された。

とても不安になって、「それは(デザイナーとして)いいことなんですか?悪いことなんですか?」と聞くと「それが手塚さんなんだから仕方ないじゃない」。

衝撃を受けた。

そうか。
仕方ないんだな。

独学で、美術やデザインの現場に身を置いたこともないことが不安だった。なにか見たことがない「デザイナー」という枠や形のようなものがあるのだろう、それにならなくちゃ、と思っていた。

でも、なにか違うらしい、ということが一瞬でわかってものすごく張りつめていたものがとけたことだけは強く覚えている。

自分の感じ方、表現の仕方。技術はもちろん学んで身につけることができるけれど、固有のにじみ出るものは「仕方ないじゃない」。

好ましく感じるもの、苦手なもの、認識しやすいもの、わからないもの。そういう感じ方の本質的な部分は、自分でも変えることはできない。

ならば、その「自分」に立ったところからしか始められないんじゃないかなあ。などと思う夜。

2019年10月12日土曜日

台風の日に

また敬愛していた方が一人亡くなった。

子どもの頃に祖母が「みんな死んでいっちゃう」とつぶやいていたのを、遠く不思議な気持ちで眺めていたけれど、そんな気持ちが、少しわかるような気がしてきた。

亡くなっていった「敬愛していた方」は、ほとんどが著名人で私が一方的に「敬愛していた」だけで、その方は私の存在すら知らない。知り合いの方についても、10年単位で交流のない方で、私の日常の生活にも、その方の日常の生活にも、なんの接点もない方ばかりだ。

だから、亡くなろうが生きていようが、「日々の暮らしに直接的な影響は何もない」。

「亡くなった」という情報が入らなければ、生きておられた日々と亡くなってからの日々とは、私の日常にとって何の違いもないのだ。

そのことを、ひどく不思議な気持ちで抱えている。


2019年8月5日月曜日

森の悲鳴

山に行ってきた。

そろそろ山に行きたいなー、と思っていたところに、許可がないと入れない森に行けるという企画があったので、ハイキング気分で申し込んだのだ。シカの食害の調査をしているとか植生回復に向けて取り組んでいるとか書いてあったものの、なんか全国的に大変なんだろうなあ、くらいの遠い気持ちにしか感じるヒマもなかった。

お気楽にバスに乗せてもらい、山に向かう。林道に入って外を眺めているうちに違和感を感じ始める。木々に虫食いがやたらと多いのだ。レースのように穴だらけの葉っぱや、茶色いマダラ模様に枯れた葉っぱ。畑の野菜ならともかく、普通の「森」でこんなに全面的な虫食いってあったっけ?

ふと、見覚えのある葉っぱが目に留まる。アセビだ。毒があるからシカは食べないのだが、学習してないヤギたちが食べてしまって食中毒を起こした忌まわしい記憶がよみがえる。

バスを降りて山道を歩く。しばらく歩くうちにまた強烈な違和感を感じる。

あれ?森ってこんなにパサパサしてたっけ?

違う。森の地面はもっとフカフカしていて、しっとりした呼吸のような湿り気に満たされていて、今の季節ならもっとたくさんのいろいろな植物が葉を広げていたり、或いは水辺の近くならいろいろな形のコケがせめぎ合っていたり、とにかく山道を歩いていたら次々と植物や生き物が静かに、でもエネルギッシュに「生きてます」オーラで話しかけてくるんだ。沢の近くならびっしりとしたコケの絨毯の上を足長のザトウムシが音もなく歩いていたり、突然カエルが飛び出したり。日当たりの良いところならのびのびと葉を伸ばし、時々それぞれの違う形の小さな花をひっそりと咲かせていたりする。そんな生き物や植物たちに出会い、その息づかいを感じることが、森を、山を歩く楽しみなのだ。

なのに、いない。

見上げたら太い幹の立派な木がたくさんあって深い森のようなのに、足元がはげ山に作った公園みたいだ。

なるほど、と思った。

これがシカの食害か。

これは相当重傷だ。


いつも、森や山に来ると元気が出た。
それはきっと、数え切れないほどの命がひしめき合い、息をし、活動している生命感に触れることができたからなのだろうと思った。この森は、死にかかっているようにしか感じられなかった。いつも森の散策のあとに感じていたような元気は、出なかった。

助けてもらおうと思って森に来てみたら、逆に助けを求められてしまった。

こんなことは、これまでなかった。
山や森には、いつも助けてもらいっぱなしだった。
行けば、いつでも助けてくれると思っていた。


私はどう考え、どうするべきか、考えている。




2019年7月22日月曜日

山

ここ数年、山に行きたいなー、という思いがつのってきて、いよいよ行くことにした。

久しぶりすぎて、自分の体力が全く読めない。
無理が効く気がしないから、最低限だけどしっかりした道具に頼ることにした。

小さなリュックは持っていたし、服も普段のもので流用できそう。
数年前に思い立った時にハイキング用の靴も買ってある。
今回買い足したのはカッパ(上着だけ)とスパッツ、それと靴下。

初めて山道具をそろえた時を思い出す。
静かに、小さく、わくわくする。


自分の生活のことや仕事のことを考えていたり、選挙があったり、痛ましいニュースや騒がしいニュースがいくつもあったりして、なんだかたくさんいろいろ考えている。

「いろいろな考え」があることは常にそうだと思うけれど、今はさらに考え方の変化の時代のさなかにある分、より一層多重的な「いろいろな考え」を感じる。

こういう変化の渦の中で、「自分の考え」をどうまとめ、どう表現すべきか、ということについてとても難しく感じている。

ただ、ひとつだけ。自分の中できちんと腹落ちする考え方であるかどうか、ということについてはしっかり見つめておきたいと思う。


山は、自分が生きていることの自信とはかなさ、そして他の人がいることのありがたさをクリアにしてくれるから、好きだ。

「腹落ち」の「腹」を、ゼロ合わせできるような気がするんだ。山に行くと。

2019年7月7日日曜日

好きと嫌いがぶつかるならば?

私は両生類や爬虫類が好きだ。
出会うと、嬉しくなる。

先日、1mほどの立派な青大将に出会って嬉しくなって写真を撮り、意気揚々とSNSに投稿しようとしてハッと止まってしまった。ヘビのにょろにょろした写真は嫌がられるかもしれない、と思ってしまったのだ。

ちょっと萎えた気分で、でも嬉しかった私の気持ちも正当に大切なはず、という葛藤の末、にょろにょろしたボディの写真は採用せず、顔だけのクローズアップの写真を選んで投稿したのだった。

インターネット上で様々な人の考えや感じ方にふれる機会が増えて、本当にいろんな人がいるんだなあ、ということをリアルに感じられるようになってきた。それは多様性を実感できるようになってきたということなのだから、自分も多様のうちの一つでより自由に表現できるようになりそうなものなのに、思えば以前より自由にものを書けなくなっている。

あれ? なんか思ってたのと違うなぁ、と思う。

好きなものを素直に好きということによって、どうやら傷ついたり不快に感じたりする人がいるようだ。そのことに気がついた人は、先回りして“不快なことを書きますよ”と前置きしてから記載する。気が利く人は、前置き、但し書き、お断りなどなど、いろんな武装付きでものを言う。

たくさんの断り書きに囲まれて、一番言いたかったことの輝きがかすんでゆく。


「表現する」ということについて、もう一度考えている。


2019年6月10日月曜日

つくるひと

こんばんは。

落ち着きそうで落ち着かなくてそれでもひとつひとつコツコツとかたづけを進める週末です。

ずっと忙しくしてしまってなかなか自分の感覚を取り戻せずにいるのだけれど、久しぶりに「つくるひと」にふれて心がふるえている。

ていねいな言葉、描きたくて描いている絵、好きを綴る映像。
その膨大な労力の根源にある情動。

ああ、創るってこういうことだったよなって。

いつの間にかオトナのフリして締め切りとかスケジュールとか条件とかのパズルに終始することに慣れてしまっていた。


私は「つくるひと」としては圧倒的に弱くて、だから「つくるひと」にはすごく憧れと尊敬ともはやほんのちょっぴりになってしまった嫉妬があって、だけど現実を見たらできることで生きてくしかないし、なら自分が「つくるひと」じゃなくても「つくるひと」の近くでいられたらいいかななんて思っていたけど。「生活といううすのろ」を乗り越えるどころか踏みつぶされて感じることさえ忘れてしまった。いつの間にか「つくるひと」から遠いところまで来てしまった。


「忘れ」てはダメだよな。
感覚を鈍らせてはいけないよな。

感覚を研ぎ澄ましたまま現実と折り合いをつけていくのは本当にしんどいんだ。

でも「つくるひと」はそれをやっている。

もう少し、
「つくるひと」に
寄りたい。

2019年2月28日木曜日

断ち切る

たくさんの傷を受けながら育った人が長じて力をつけた時に、
自分より弱い誰かを傷つけてしまう連鎖を断ち切るというのは、
理解することも言うこともたやすいけれど
実際にそれを行うのはなかなかに力量が必要な仕事だと思う。

それができるためには、
自分が受けた傷を充分に治せるだけの
余裕と支えが必要。

やさしくされたことのない人は
やさしくすることはできないのではないかな。

同時に、痛みを感じたことのない人に
痛みを知ってもらうこともたやすくはない。

人ってアタマで考えるほどには
自由にふるまえないモノなような気がする。


いつでもできるわけじゃないからこそなおさら、
できる時にはできるだけ
人にやさしくしたいと思う。

2018年12月4日火曜日

ひとくぎり。

 久しぶりに文章を。

 仕事を替えようと決意してから思えばいくつかのステップを過ぎてきていた。その間ずっと「まだまったくできてない」という感覚で、それは今でもそうなのだけれど、ふと振り返ってみると間違いなくまだ全然できていなくて、それでも決意した時とはかなり状況が変わったなあ、と思う。

 自分が、思いのほか長く生きてきていて、そのことにちょっと面食らっている。

 なんだかいろいろ書きたいことがあるような気がするのだけれど、あまりにもたくさんすぎて整理がつかない。

 主に「インターネット」と「自分の力のスケール感」というものについて考えている。

 そして、カメラの壊れたiPhone5Sの次の愛機をどうすべきかについて久々にぐずぐずと思い悩んでいる。

 そういえばスマホを愛機と呼ぶのを聞いたことはない。なんか違うんだろうな。

2018年3月9日金曜日

遠方より友来たる

そういえば「ほっとする」ってこんな感じだったかも。
みんな、それぞれの人生をそれぞれに精一杯生きてた。
たくさんの愛情と気遣いのお土産。

あったかく、満たされた。
本当に、感謝。

わたしはわたしにできることを、する。
わたしもいつかこんな風に
誰かをあたたかくしてあげられるといいな。

2018年2月26日月曜日

等身大で。

ちょっと力みすぎてたみたいです。

情報収集は必要だけど、ネットでいろいろ見てるとみんな私より若くて技術力も桁違いに優れている方々がとても謙虚で、ま、そりゃ焦ります。でも今さら焦ったところで急激に技術力を伸ばせるわけでもなく、逆に人生という意味ではその時その時の環境の中で常にめいっぱいの経験値を得てやる!という姿勢で生きてきたので、それらが目減りするわけでもない。

既成の場所に自分の居場所を見つけられなかったから自分の力を使って自分の居場所を創り上げていこうという選択をしたのだし、その選択が間違っているとは思わない。素直に、できることを積み重ねていこうと思います。

と、腹を据えられたなら、急げ!

2018年2月23日金曜日

いろいろ足掻いてます


まとまらないままにいくつか。「タイポグラフィの基本ルール/大崎善治 著/ソフトバンククリエイティブ株式会社 発行」に打ちのめされている。なんというか、最初に「はじめに」のページを開いたとたんに衝撃を受けた。

美しい。

あまりにも久しぶりな感覚。紙の白さ、質感、余白、文字組、なにしろタイポグラフィの基本ルールというくらいの本なのだから、当然それらをすべて考え抜かれている紙面なのだろうけれど、理屈の前に一目見た瞬間美しかった。なんかもう、目次までいった段階で泣きそうだった。

読み終わってから著者検索してフォントワークスにたどり着いて藤田重信さんの「ゆ」の制作動画にまた衝撃受けてああもうカッコよすぎ。


もうひとつは、以前、小林れいさんからかさこさんのセルフマガジンというのを紹介されていて、おもしろそう!よし私もいっちょ作ったるか!と思って始めたのに思いがけず苦戦してる件。まずはかさこさんのセルフマガジンを読ませていただこうと申し込んで、それが届いたんだけれど、もうなんか、読んでるうちに笑けてきた…(決して笑う内容ではありません…)。なんというか、熱い思いのバズーカ・ズガガガガガガガガガガガガガガみたいな感じで、もう、来た。思いが、来た。

なんというか、うれしいのとうらやましいのと…なんだろ? やっぱり気持ちがいいよね。ストレートなぶちまけ感というのか。

自分のセルフマガジンづくりが行き詰まった理由は大体わかってて、要は自分をどこまでどういう形でぶっちゃけたらいいのか問題なんだな。自分個人としてはもう洗いざらいぶちまけちゃった方が楽な気がするけど、自分のことをさらすことが自分だけの問題にならない部分はやっぱり悩んでしまう。あまり美しい経歴じゃないからなあ。こればっかりはもう、自分で決めなきゃならないのでもうちょっと整理します。でもまあなんか、できそうな気はします。がんばる。


もうひとつは、あれ?自分、なにも作れてないな?! 問題。やらねばならぬことに追われることに慣れすぎて、創る時間ができていたのにそういう時間の使い方を忘れてしまっていた。そもそもなんというか、「感性」というものを働かせることを封印し続けていたから働かせ方を忘れてしまっていた。

ということに昨日気がついて、今日はそいつを引っ張り出してみた。ちょっとずつ、感覚が戻ってくる感じがある。ほっとする。これはもう、リハビリみたいなもんだな。

今頃こんなことやってて大丈夫かいなとは思うけれど、その工程を飛ばしてできるもんならとっくにできているわけで、焦らず(焦るけど)確実に進むしかないと思って進めます。

このwasabiさんのトークにものすごく励まされている。(絵のモデルはこの動画から)ぎこちなく、ひとつ、ひとつ、確かめるような話し方もすごく染み入る。

というわけで、テツカのぐちゃぐちゃの足掻きっぷりをさらしてみました。ちゃんと立て直してみせるぞ。キッ。

2018年2月16日金曜日

今日は授業参観とPTA総会

道徳の授業でメディアリテラシーを教えてました。なるほどなあ。

道徳の教科化とかリアルな現実の流れの中での子どもたちの変化とかいろいろある中で、現場の先生達は現実に合わせていろいろ考えてくれてるよなあ、と思う。

突っ込みどころなんていくらでもあると思うけど、悪影響があることについてはすぐにやめなきゃダメだと思うけど、そうでもないことなら、足りないことに苦情を言うのではなくて足りないことを補う方法を考えて実行していけばいいのになと思う。

みんなお互いに足りないものなんだということが大前提の共通認識になれたらやさしくなれるんじゃないかなあ。

なんて勝手に妄想広げて考えてしまったのは、苦情を先回りして予防線張っておくのが当たり前になってきてるのにちょっと疲れてるのかも。

神様を信じることが難しい世の中で信頼関係を築くためにはどうしたらいいのかな。たぶん、きっと、なにかをサボったらダメな気がする。

2018年2月8日木曜日

街に行ってきました


今日は街仕事。人に会って話をして、世の中を見て、自分の力の足りなさに悔しくて悔しくてめっちゃハングリーモードになってきました。

もう、すぐ帰って仕事する!!! とか思いながら駅まで来たのに、お山に帰る電車はすぐには来なくて待ち時間。どうせ待たなきゃならないならせっかくだからアンデルセンでパン買っていくかー。と寄り道したのがGood luck!

実は私、以前アンデルセンでアルバイトをしていたことがあります。広島出身の友達と仲良くしていて、アンデルセン情報が入っていた(アンデルセンは広島が本社)のもそこを選んだ理由の一つでした。阪急百貨店の梅田本店にアンデルセンが新装オープンする時で、社員さんもアルバイトもみんなで一斉にお店作っていくぞーという雰囲気でとても楽しかったのです。

オープニングということでアンデルセンの研修もしっかり充実していたし、阪急百貨店の研修にも参加させてもらえたんですよねぇ。その時に、小林一三は人々を電車に乗せるために宝塚劇場を作ったのだ!みたいな話(雑な記憶ですみません)を聞いて小林一三すげえええええ!と衝撃を受けました。昔は大きな組織とか会社に全く興味がなかったんですが、思えばこの時の衝撃が大きな会社や組織の力というのもちょっとおもしろいな、と気づくきっかけだった気がします。アンデルセンの研修もとても勉強になったし。

前置きが長くなりましたが今日に戻ります。待ち時間をつぶすために寄ったアンデルセンで、レジを待っている間、ぼんやりスタッフの方を眺めていたらその頃のことを思い出してきて、ああ、あの時のまるぺけさんは元気かなあ…なんて考えてたら、………ほ、本人?! なんとその時一緒に働いていた方と十数年ぶりに再会したのでした。

思い切って声をかけたら相手の方も私のことを覚えていてくださったようで、ものすごくうれしかった! その時に一緒に働いていたスタッフの方がもう一人いらっしゃって、顔を見たらお互いに思い出して、次々出てくる名前に過去の記憶がよみがえり。あまりの嬉しさに帰り道、今でもつながっている当時一緒に働いていた友人にメールしたら彼女もとても喜んでくれて、なんだかものすごく幸せが増幅しました。

違う店舗とはいえ同じ会社なのだから、私のように人生フラフラしないで真面目に同じ会社で働いていたらありえないことではないので、そこまで奇跡的な再会というわけでもないのだろうけれど、自分でもびっくりするくらい嬉しくなってしまった。ちょっと不思議な感じがしたけれど、それはもしかして、当時、楽しく張り切って一生懸命がんばっていた自分に会えたような気がしたのかも。あの頃、私、ちゃんとがんばってたやん、という「大丈夫な自分」を見つけたような気がしたのかもしれない。

そんなこんなで、前半の「自分、できてない!悔しい!」モードと相まって、今日はやる気100万倍みたいな気分になりました。がんばるぞ。

ちなみにアンデルセンはハード系のパンが充実していることや、ヒュッゲというテーマに共感するところもあったりして、今でもお気に入りのパン屋さんです。亀岡のリトルマーメイドも閉店しちゃうし、ちょっとまめに京都までパン買いに行こうかなあ。