いろいろなことが一段落したので髪を切りました。やっと。
いつもの担当のお姉さんに(店に)入ってきた時(髪の伸び具合が)ヤバかった的なことを言われて、そうだよね、と思いました。まあ仕方ない。
余裕がなくなってくるとアンテナを鈍らせたり心が激しく動かないように固めたりしないと身を守れないので仕方ないのだけれど、やっぱりその状態が続くのは良くない。
ようやくちょっとずつぷるぷるとアンテナを伸ばして、空の青さを、風を、感じる。
さて。調子を整えてまた次に行くかー。
2019年10月27日日曜日
2019年10月22日火曜日
大切にしたいこと
少し、困っている。
困っている中で、思い出した。
私は、大切な人を大切に扱うために独立しようと思ったのだった。
組織の中で、組織の人としての役割を果たそうとした時に、どうしてもそれがうまくできないことが分かったから別の道を選んだのだ。なにが大切か、どこに力を置くのか。それを自分で決めたい、と思ったから、この道を選んだのだ。他にそれができそうな道を見つけられなかったから。
それなのに、ふと気がついたら同じ課題が目の前にある。
これは、突破しなければならないと思う。
ネット上に私が共感する考えがあふれていることで、とても勇気づけられる。感謝。
困っている中で、思い出した。
私は、大切な人を大切に扱うために独立しようと思ったのだった。
組織の中で、組織の人としての役割を果たそうとした時に、どうしてもそれがうまくできないことが分かったから別の道を選んだのだ。なにが大切か、どこに力を置くのか。それを自分で決めたい、と思ったから、この道を選んだのだ。他にそれができそうな道を見つけられなかったから。
それなのに、ふと気がついたら同じ課題が目の前にある。
これは、突破しなければならないと思う。
ネット上に私が共感する考えがあふれていることで、とても勇気づけられる。感謝。
2019年10月21日月曜日
仕方ないよね。
私がデザインしたチラシをデザインの先生に見てもらった時、ちょっと「?」と思うような特徴を指摘された。
とても不安になって、「それは(デザイナーとして)いいことなんですか?悪いことなんですか?」と聞くと「それが手塚さんなんだから仕方ないじゃない」。
衝撃を受けた。
そうか。
仕方ないんだな。
独学で、美術やデザインの現場に身を置いたこともないことが不安だった。なにか見たことがない「デザイナー」という枠や形のようなものがあるのだろう、それにならなくちゃ、と思っていた。
でも、なにか違うらしい、ということが一瞬でわかってものすごく張りつめていたものがとけたことだけは強く覚えている。
自分の感じ方、表現の仕方。技術はもちろん学んで身につけることができるけれど、固有のにじみ出るものは「仕方ないじゃない」。
好ましく感じるもの、苦手なもの、認識しやすいもの、わからないもの。そういう感じ方の本質的な部分は、自分でも変えることはできない。
ならば、その「自分」に立ったところからしか始められないんじゃないかなあ。などと思う夜。
とても不安になって、「それは(デザイナーとして)いいことなんですか?悪いことなんですか?」と聞くと「それが手塚さんなんだから仕方ないじゃない」。
衝撃を受けた。
そうか。
仕方ないんだな。
独学で、美術やデザインの現場に身を置いたこともないことが不安だった。なにか見たことがない「デザイナー」という枠や形のようなものがあるのだろう、それにならなくちゃ、と思っていた。
でも、なにか違うらしい、ということが一瞬でわかってものすごく張りつめていたものがとけたことだけは強く覚えている。
自分の感じ方、表現の仕方。技術はもちろん学んで身につけることができるけれど、固有のにじみ出るものは「仕方ないじゃない」。
好ましく感じるもの、苦手なもの、認識しやすいもの、わからないもの。そういう感じ方の本質的な部分は、自分でも変えることはできない。
ならば、その「自分」に立ったところからしか始められないんじゃないかなあ。などと思う夜。
2019年10月12日土曜日
台風の日に
また敬愛していた方が一人亡くなった。
子どもの頃に祖母が「みんな死んでいっちゃう」とつぶやいていたのを、遠く不思議な気持ちで眺めていたけれど、そんな気持ちが、少しわかるような気がしてきた。
亡くなっていった「敬愛していた方」は、ほとんどが著名人で私が一方的に「敬愛していた」だけで、その方は私の存在すら知らない。知り合いの方についても、10年単位で交流のない方で、私の日常の生活にも、その方の日常の生活にも、なんの接点もない方ばかりだ。
だから、亡くなろうが生きていようが、「日々の暮らしに直接的な影響は何もない」。
「亡くなった」という情報が入らなければ、生きておられた日々と亡くなってからの日々とは、私の日常にとって何の違いもないのだ。
そのことを、ひどく不思議な気持ちで抱えている。
子どもの頃に祖母が「みんな死んでいっちゃう」とつぶやいていたのを、遠く不思議な気持ちで眺めていたけれど、そんな気持ちが、少しわかるような気がしてきた。
亡くなっていった「敬愛していた方」は、ほとんどが著名人で私が一方的に「敬愛していた」だけで、その方は私の存在すら知らない。知り合いの方についても、10年単位で交流のない方で、私の日常の生活にも、その方の日常の生活にも、なんの接点もない方ばかりだ。
だから、亡くなろうが生きていようが、「日々の暮らしに直接的な影響は何もない」。
「亡くなった」という情報が入らなければ、生きておられた日々と亡くなってからの日々とは、私の日常にとって何の違いもないのだ。
そのことを、ひどく不思議な気持ちで抱えている。
2019年10月6日日曜日
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